提言101:象徴天皇制について、学校教育でどう取り扱うか。 
 
 2016(平成28)年8月8日、天皇陛下は国民に向けたビデオメッセージで「高齢になった天皇の望ましい在り方」についての考えを示された。
 その内容は、現在82歳になられた陛下が、数年前から次第に進む身体の衰えを考慮すると、全身全霊で象徴の努めを果たしていくことが難しくなるのではないかと案じていると語り、終身天皇を前提とする現行制度の問題点に触れるとともに、生前退位の意向を示唆されたものであった。(注)
 今上天皇は、1989(昭和64・平成元)1月7日、昭和天皇の崩御の後、第125代天皇として。御年55歳で即位された。
 以来、「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らのうちに育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も象徴的行為として大切と感じて来ました。」という認識をもって「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈る」ということが努めであると認識して、象徴天皇像を自ら形づくられてこられたことなどが述べられている。
 日本国憲法は第1条で「天皇の地位」について、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。しかし、天皇は日本国の象徴、国民統合の象徴と規定されているが、これまで、象徴とは何か、その行為はどのようなものであるのかについては何も示されずに今日に至っている。
 象徴」とは、新漢語林(大修館書店)によると、「抽象的な精神内容を、具体的な事物によって連想させる」ことだという。しかし、天皇が日本国の象徴、国民統合の象徴であることを学習するとき、これがその例となるべき事物・事象であると学校教育の中で例示する、あるいは学校教育の側で天皇の行為について、その行為の是非についての判断などを加えること以後はできないことなのである。
 このため、象徴としての天皇の在り方について、事例を通して児童生徒に理解させることは難しかった。結果として、「天皇は日本国の象徴」という言葉だけの学習で終わっているという例が多かった。
 今回、天皇陛下の「お言葉」が発表され、象徴についてのお考えも示された。このことを踏まえて、象徴天皇制に対する筆者の見解を述べる。
 このような状況においても、逞しく生き抜いていく力をもつ児童生徒の育成を図っていかなければならない。少子超高齢社会を見据えた教育の在り方について、筆者の見解を述べてみたい。

1 天皇家の成立と皇位の継承
 皇室の系図は『古事記』『日本書紀』などの史書に基いて作られている。第1代は神武天皇。神武天皇元年(紀元前660年)に即位した。今上天皇は125代である。この間天皇の地位は連綿として切れることなく継承されてきたとされている。
 しかし、確定している日本の歴史では、紀元前660年のころは縄文時代が終わり、弥生時代が新しく展開される頃であり、水稲稲作が開始された時期である。このため、『古事記』『日本書紀』に天皇号を用いて記載されている人物であっても、最初の天皇から数人、あるいは十数人の天皇が実在を認められていないか、あるいは強く疑われているといわれている。
 天皇の前身となる大王(おおきみ)が遅くとも5世紀には畿内(現在の奈良県を中心とする地域)の政権の首長として存在していたこと、その後、大和朝廷が成立し、7世紀の頃までに全国に勢力圏を拡大し、7世紀から8世紀にかけて律令体制が整えられる動きの中で、大君が天皇(すめらみこと)という統一政権の権力者に変化したものと考えられている。
 天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新(646=大化2~686)の時代の頃であり、天皇の名称も一般化したといわれている。
 このたび、今上天皇は生前退位の意向を示された。生前退位は可能なのか。宮内庁によると、124代昭和天皇までの歴代天皇のうち、生前に退位して皇位を次代に譲った天皇は58名にのぼるという。このことは、明治時代以前には生前退位が行われていたことを示している。
 天皇の生前退位について時代別に見てみると、飛鳥・藤原時代(592~709)には、在位した11名の天皇のうち生前退位した天皇は、大化の改新を理由に退位した第35代皇極天皇(女帝、退位645年)、病気が理由で退位した第41代持統天皇(女帝、退位697年)の2名である。
 奈良時代(710~784)には、第43代元明天皇(女帝、退位715年)は高齢を理由に、第44代元正天皇(女帝、退位724年)は甥の第45代聖武天皇への譲位を理由に退位した。第45代聖武天皇(退位749年)は仏教に帰依することを理由に、第46代孝謙天皇(女帝、退位758年)は政務に耐えられないとの理由で退位している。第47代淳仁天皇(退位764年)は藤原仲麻呂の乱に関連して孝謙上皇によって廃位させられ、第49代光仁天皇(退位781年)は病気、高齢を理由に退位し、桓武天皇が皇位を継承した。
 ここまでの時代は皇室内部で特定の人物の成長まで皇位を守り抜く・あるいは天皇の意思という形での皇位継承のための生前退位という傾向が見られたということができる。
 しかし、平安時代(794~1185)に入ると、第50代桓武天皇から第82代後醍醐天皇まで33名の天皇が即位したが、そのうち崩御による皇位継承よりも他の理由によって22名の天皇が退位している。
 このうち、退位の理由が病気によるとされている天皇は11名、時の権力者の意向によるが6名、徳がないからが2名、政務に耐えられない、仏教に帰依するため、院政を行うためが各1名となっている。この時代に生前退位が多いのは、天皇自らの意思による生前退位ではなく、貴族間の対立、すなわち天皇の権力を自らの一族の権力維持に利用した平安時代の貴族政治・摂関政治の権力構造が原因であったことを垣間見ることができる。すなわち、天皇家とそれを取り巻く政治勢力とのかかわりの中で生前退位が行われるという状況が生じてきたということができる。
 平安時代の後半には天皇を退位した天皇は「院」と呼ばれ、院による執政が「院政」といわれる政治を展開した。院政を担当した上皇は「治天の君」といわれ、次の天皇の皇位継承を決定する権力を持つようになり、このことによる皇位継承をめぐる争いなども起こっている。
 また、平安時代の末期には武家の出身である平清盛が台頭した。清盛の娘、建礼門院徳子の子である安徳天皇への皇位継承が進められた。平氏政権は武士としての勢力を伸ばしてきたが、政権を維持するためには天皇という権威、後ろ盾がなければならなかった。このことから時の政権が天皇の権威を政権維持に活用する。その形が政治スタイルとして成立してきたということができる。
 鎌倉時代(1185~1333)には14名の天皇が在位する。そのうち12名の天皇が生前退位を行っている。このうち、北条氏の要請によって退位した天皇が3名、院政に伴っての退位、あるいは討幕に失敗しての退位が6名となっている。また地震・大火などの世情不安を理由とする退位が3名となっている。このことから鎌倉幕府の成立によって朝廷の権威が幕府の実権に左右されるという権力構造が生じてきたということができる。
 南北朝・室町時代(1336~1573)には9名の天皇が在位する。そのうち5名の天皇が生前退位を行っている。室町時代は幕府政治が本格化し、「持明院統」「大覚寺統」の両統を交代で皇位が継承されるなど、幕府による皇位継承への介入が行われていたということができる。
 安土桃山・江戸時代(1573~1868)には16名の天皇が在位する。江戸時代には徳がないとの理由で交代した天皇が8名、幕府との不和、高齢、皇位第一位の皇族の成長による交代が各1名である。特に江戸時代には徳がないとの理由での交代が目立つ。この背後に朝幕間の対立があったことが考えられる。
 明治時代(1868~1912)以前の皇位継承には、特に成文化された規定はなかった。「貴種」として天皇の地位は特別視されており、天皇家内部での地位の交代はあっても天皇家以外の政治勢力が天皇に代わってその地位に就くということはなかった。天皇の権威を背後に置いて、その権威を借りて政治勢力が政治を担当していくという形がつくられてきていたからである。
 その背景にあるのは、天皇家がその血筋を自らの血縁の中で継承してきたという長い伝統があったこと、そして精神的な権威として存在してきたことである。また、その権威に裏打ちされることによって政治を担当する政治勢力が正当性のある権威として認められる形を伝統として育んできた日本の風土があったからということができる。天皇家との血縁につながらない者が天皇に取って代わるという考えが生じる余地がなかったところで天皇としての権威が長く存在し得たということができる。

2 大日本帝国憲法と天皇の地位
 1867(慶応3)年10月、第15代将軍徳川慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。これを受けて、1868年1月(慶応3年12月)に王政復古の大号令が発せられた。これは武家政治が廃止されて、それ以前の天皇を中心にした君主政体に復することを意味していた。君主としての天皇、一方、政治運営の場における天皇の立場、これを具体的に示しているのが、1889(明治22)年2月11日に発布された大日本帝国憲法である。
  大日本帝国憲法
   第 1 条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス
   第 3 条 天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラズ
   第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
   第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
 これは大日本帝国憲法に示された天皇の大権に属する内容である。しかし、政治的責任の取り方については示されていない。
   第55条 国務大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス
 これは天皇の下で政務を担当する大臣の立場と責務を示したものである。第55条にある輔弼とは、天皇の行為や決定に関し進言し、その結果について全責任を負う、との意味である。このことから大臣は担当する政務に全責任を負うということで、天皇に責任が及ばない形で、現実の政治は動いていたといえる。
 日本文化に関する総合研究と日本研究者に対する研究協力を目的とする国際日本文化研究センター(日文研)の瀧井一博教授(法制史)は、明治憲法は天皇の絶対主義を規定したようにみえるが、「天皇という一人の天皇の意思で政治が左右されないように」との方針で、制度設計を伊藤博文らが行ったものと述べている。
 同日、皇室典範も発布されている。皇室典範とは皇位継承・皇族・摂政・皇室会議その他皇室に関係のある事項を規定する法律である。このとき制定された皇室典範は大日本帝国憲法と並んで成文憲法としての性質を備えたものであった。この中で重要なことは生前退位による政治的混乱を避けるということであった。すなわち、生前退位などによって上皇派、天皇派といった対立による政治的混乱が生じないように、終身天皇制を採用したということができる。
 第10条に「天皇崩スルトキハ皇嗣スナワチ践祚シ、祖宗ノ神器ヲ承ク」(天皇の崩御とともに皇位継承順位第1位の皇族が皇位を継ぎ、神器を受ける)と定めることで、天皇の生前退位は認めないとすると同時に、後継者を事前に定めておくことで皇位継承に政治的混乱を生じさせないという配慮がなされていたのである。
 憲法制定等に先立つ1886(明治19)年、皇室典範制定に関連して天皇の地位に関わる調査等が行われた。この時、これまでの天皇の生前退位の例を踏まえて、退位を認める案が典範起草に関わった人物の中から示されたが、伊藤博文は「いったん天皇になったら、自分の意思で退位して皇位を譲るなどということは道理にあわない」との考えを示しており、皇位の尊厳の保持、このためには生前退位は認められないとの立場を強く取っていたという。
 「現人神(あらひとがみ)」である天皇、この天皇が生活する宮中と国家の統治作用である政治とを分離する。ここに伊藤博文の意図があったといえる。

3 日本国憲法と象徴天皇制
 1945(昭和20)年10月、連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQという)は大日本帝国憲法の改正を示唆した。これを受けて幣原喜重郎内閣は憲法調査委員会を設置して検討し、翌年1月に試案を発表した、また、政党や民間団体からも試案が相次いで出された。しかし、その大部分は大日本帝国憲法の部分的修正にとどまっていた。このためGHQ の承認を 得ることができなかった。これらの作業の最後にGHQは自らの案を提示した。これをもとに審議、修正が行われ、日本国憲法の草案が完成した。この草案は帝国議会で審議され1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法として公布され、翌1947(昭和22)年5月3日より施行された。皇室典範も同日より施行されている。
 日本国憲法制定によって、天皇は大日本帝国憲法に規定された「国の元首で統治権の総攬者(総攬とは、政事・人心などを一手に掌握すること)」、神聖不可侵の立場から、「日本国の象徴および日本国民統合の象徴」、実際政治に関与せず、の立場に変わった。
 一方、大日本帝国憲法下における皇室典範は欽定の最高法規で国会の関与が認められていなかったが、日本国憲法下においては、皇室典範は一般の法律と同じ扱いになった。この結果、国会の議決によってその内容を変更することも可能となった。
 この背景には臨時法制調査会が新しい皇室典範についての議論を行っていた1946(昭和21)年1月1日、昭和天皇は自らの神性を否定する、いわゆる「天皇の人間宣言」を行ったこと、これが天皇の地位を根本的に変更することに繋がったと捉えられている。
 当時、昭和天皇の戦争責任を問題にする考えも存在していた。「天皇の志望により国会の承認を経て退位を認める」との意見が調査会の中にもあったが、「退位のないことが皇位継承を安全にし、皇統を護持することができる」などの意見が多数を占めた。これが新しい皇室典範作成にも受け継がれ、皇室典範の第1章4条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」と規定された。
 天皇については、日本国憲法に規定された「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」との立場にあり、その地位は皇室典範に示されているように「天皇が崩じたとき」までというのが現行法規の考え方である。
 日本国の象徴、日本国民統合の象徴としての行為、このことを具体的に示す天皇の行為とは何か、この判断に国民が関与することはできない。なぜなら、天皇の行為は国民の制約を受けないからである。
 このため、学校における憲法学習において「象徴」とは何かについて具体的に示すことができず、象徴という言葉だけが学習の中で取り上げられ、「天皇は日本国の象徴」という言葉が解釈もされずに頭の中に残っているという状況を作り出してきたということができる。

4 象徴天皇制の学習の進め方
 2012(平成24)年3月22日、文部科学省は「小学校から高校までの教育課程における憲法学習等について」と題したまとめを出している。
 これによると、まず、教育課程の基準となるのが文部科学大臣が定める学習指導要領であるということを冒頭で示している。
 憲法に関する教育については各校種の社会科・公民科の中で、児童生徒の発達段階を考慮しつつ学習することになっている。
 憲法学習においては、
◯小学校社会科の第6学年において、民主的な国家・社会の形成者として
 必要な公民的資質の基礎を養う観点から、
 ・日本国憲法は、国家の理想、天皇の地位、国民としての権利及び義務など、
  国家や国民生活の基本を定めていること
 を学習し、我が国の民主政治は日本国憲法の基本的な考え方に基づいていることを考える
 ようにすること。
 また、国会などの議会政治や選挙の意味、国会と内閣と裁判所の三権相互の関連、国民の司法参加、租税の役割、天皇の国事に関する行為、参政権、納税の義務などについても取り上げることにするとなっている。
 このことについて、小学校学習指導要領解説では、「天皇の地位について調べるとは、天皇の国事行為等を取り上げて調べ、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けられていることを理解できるようにすることである」と示されている。しかし、ここでも象徴の意味・内容については触れられていない。
◯中学校社会科の公民的分野(第3学年)においては、
 ・我が国の政治が日本国憲法に基づいて行われていることの意義
 ・日本国憲法が基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を基本的原則として
  いること
 ・日本国及び日本国民統合の象徴としての天皇の地位と天皇の国事に関する
  行為について理解させることとなっている。
  また、法に基づく公正な裁判の保障、国民の政治参加、選挙の意義につい
 ても考えさせることとしている。
◯高等学校においては、良識ある公民として必要な能力と態度を育てる観点か
 ら、
「現代社会」においては、基本的人権の保障、国民主権、平和主義と我が国の安全について理解を深めさせること
「政治・経済」においては、
 ・日本国憲法における基本的人権の尊重、国民主権、天皇の地位と
  役割、国会内閣、裁判所などの政治機構を概観させること
 ・政治と法の意義と機能、基本的人権の保障と法の支配、権利と義務の関係、
  議会制民主主義、地方自治などについて理解させること
とあり、天皇の象徴としての行為については具体的に示されていない。象徴として行っている行為はこれだと国民の側からその内容についてその行為を示すことができないからである。
 今回、天皇陛下はお言葉を発表して、象徴としての行為について、自らの考えを示された。天皇の活動は憲法で内閣の助言と承認により行うと規定されている10種の国事行為、象徴の立場で取り組まれている各種儀式への参加や被災地などへのお見舞いなど、その他、新嘗祭などの宮中祭祀やハゼの研究などの行為といったことが天皇陛下の活動として、今回新聞等で紹介された。
 「私が天皇の位についてからほぼ二十八年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々とともに過ごして来ました。私はこれまで天皇の努めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事に当たっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
 天皇が象徴であるとともに、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。」(中略)「国内のどこにおいても、その地域を愛し。その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識を持って、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという努めを人々への深い信頼と敬愛を持ってなし得たことは、幸せなことでした。」
 この部分に象徴天皇として何をなすことがその行為としてふさわしいことなのか、その答えが示されている。これまでの憲法学習においては、例えば天皇陛下の象徴としての行為はこのような行為であるとその行為を具体的に示すことはできなかった。
 天皇陛下のお言葉が発表されたことで、天皇陛下が日々どのようなことを考え、それを形としてどのように示しているのか、そのことが明らかになった。
象徴としてどのようなことに取り組んでいるか、そのことも明らかになった。
 天皇の存在を身近なものにするためには、天皇陛下のお言葉を授業の中で示し、具体的に学習を深める、また、このことを通して憲法に関心を持つ児童生徒の育成を図る。このことが重要と考える。
 また、4年後には東京でオリンピック・パラリンピックが開催される。優勝者への栄誉が称えられる、表彰に当たっては、国旗が掲揚され、国歌が演奏される、この旗のもとで、この国歌を歌い、世界の各国が自国の国造りにどう取り組みを進めてきたのか、進めようとしているのか、そのことを学習する絶好の機会となる。日本の国についても、天皇のお言葉を活用しながら、「象徴」としての天皇、国民とのつながりなどについて、具体的に学習を深める。このことを通して日本の国造り、世界各国との友好・親善の樹立、そのような内容を含んだ憲法学習が展開されることを強く期待するところである。

  (注) 天皇陛下の生前退位の意向を示唆されたことを踏まえて、「天皇の公務の
      負担軽減等に関する有識者会議」が設置され、2016(平成28)年10月18日
      に初会合が開かれた。今後、天皇の生前退位など8項目について検討すること
      になっている。2~3回会合を重ねて解決策を模索する予定といわれている。
      2~3回会合を重ねて解決策を模索する予定といわれ


<参考資料>
・天皇のおことば(全文)2016(平成28)・8・8  読売新聞等各紙
・天皇の一覧・象徴   ウィキペディア
・象徴の意味を考える  日本政策研究センター  2006.6.29
・小学校から高校までの教育課程における憲法教育等について 文部科学省
・生前退位等についての報道記事     朝日・読売・毎日・産経等各紙
  

以 上


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