提言23: 教育課程の編成で、暗黙知に着目しよう!  (2009/7 記)

 今、新しい教育を論ずる時、「暗黙知」というあまり聞き慣れない言葉が使われる場合がある。
 この言葉は、中央教育審議会初等中等教育分科会の「教育課程部会審議経過報告」(平成18年2月)で次のように用いられている。すなわち、「概念、法則、暗黙知なども、知識の理解や活用を促進する上で重要である。」と。
 さらに、中央教育審議会答申 ━ 幼稚園、小学校、中学校及び特別支援学校の学習指導要領の改善について(平成20年1月7日)で、(3)「形式知のみでなく、いわゆる暗黙知を重視すべきである。」と指摘し、その欄外に解説として次のように示している。
 「*1『形式知』とは、知識のうち、言葉や文章、数式、図表など明確な形で表出する ことが可能な客観的・理性的な知識を指す。これに対し、『暗黙知』とは、勘や直感、経 験に基づく知恵などを指す。」

 今回の学習指導要領改訂では、その基本方針として、第1に、「教育基本法改正等で 明確になった教育の理念を踏まえ、『生きる力』を育成すること。」と示している。その 上で、「生きる力」について次のように述べている。
 「変化の激しい社会を担う子どもたちに必要な力は、基礎・基本を確実に身に付け、い かに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、自ら律しつつ、他人とともに協調し、他人を 思いやる心や感動する心などの豊かな人間性、たくましく生きるための健康や体力などの、 『生きる力』であると提言した。」
 「生きる力」をこのように考えた時、必然的に、狭い意味での知識だけでなく「勘や直 感、経験に基づく知恵など」の「暗黙知」も、生きる力の重要な構成要素になる。

 暗黙知の重要性は、世界の思想界で、20世紀末以来強調されてきた。その中の基本的文献であるマイケル・ポラニー著「暗黙知の次元―言語から非言語へ(The Tacit dimension)」(註1)では、この本の概要として表紙裏で次のように述べている。
本書について
 われわれが考える知以外に、もうひとつの知がある。言語的・分析的な知に対する非言語的・包括的な知、それが本書でいう「暗黙の知」である。
 人間はこれら両方の知を駆使して、ものごとを知覚し、学習し、行動する。人の顔を識別し、コミュニケーションを交わし、スポーツや技能を体得できるのも暗黙知が働いているからである。さらに科学においても、この非言語的な知は重要な働きをする。たとえば問題の所在を知るとか、何か発見するといった想像的な活動の源となるものであるという。―以下略―
 本書は難解だが、基本的な考えを述べたと思われる文章を「T暗黙の知」からいくつか抜粋してみる。
・ 「人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる、という事実である。」(15頁)
・ 「知的であろうと実践的であろうと、外界についての我々のすべての知識にとって、その究極的装置は我々の身体である。・・・我々がもっている感知に依拠している。」(32頁)
・ 「もし包括的存在の諸細目を細かに調べるならば、意味は消失し、包括的な観念は破壊される。」(36頁)
・ 「諸細目を知ることによって事物についての真の観念が得られる、と考えることは根本的に誤った信仰なのである。」(37頁)
・ 「近代科学の目的は、厳密に主観を排した客観的な知識を確立することである、と宣言されてきた。・・・知識の個人的な要素をすべて除去するという理想は、実際にはすべての知識の破壊を目指していることとなる。」(38頁)
・ 「すべての研究は問題から出発しなければならない,とはふつうは言われることである。・・・そもそも人間にはどのようにして問題が見えるということがおこりうるのだろうか。なぜなら、問題が見えるということは、かくれているなにものかが見えるということだからである。それは、まだ包括的にとらえられていない諸細目のあいだに、まとまりがあるのではないか、という一つの内感(intimation)をもつことである。」(40頁)

 暗黙知は、日本でも着眼されるようになってきた。例えば、中村雄二郎「述語集〜気に なる言葉〜」(註2)では、「パタン認識/棲み込み/共通感覚」をキーワードに解説し ている。その一部を紹介する。
 「このようなわけで、暗黙知では対象の全体と部分との関係が大きな意味をもつが、そ れにもまして重要だと思われるのは、栗本慎一郎氏(『ブタペスト物語』1982年)も 強調しているように、この知において、われわれの身体が関与し、またそこに棲み込み (Dwelling in)ということが起こるということである。まず、身体の関与については、ポランニーは、《知的であろうと実践的であろうと、外界についてのわれわれのすべての知識にとって、その究極的な装置はわれわれの身体である》と言い切っている。棲み込みとはなにかといえば、諸部分から成る事物の全体的な意味を理解しようとするとき、諸部分を外側から眺めるのでなく、その全体のなかに、棲み込むことである。そしてそのとき、諸部分はわれわれの身体のなかで統合される。われわれの身体の諸部分を内面化することは、とりもなおさず、全体のなかに身体的に棲み込むことなのである。」(18頁)

 暗黙知は、企業経営の分野でも注目されている。野中郁次郎・紺野登氏は、著書「知識 経営のすすめ」(註3)において、次のように示している。

暗黙知 (Tacit Knowledge) 形式知 (Explicit Knowledge)
 ・言語化し得ない・言語化しがたい知識  ・言語化された明示的な知識
 ・経験や五感から得られる直接的な知識  ・暗黙知から分節される体系的な知識
 ・現時点の知識  ・過去の知識
 ・身体的な勘どころ、コツと結びついた技能  ・明示的な方法・手順、事物についての情報を理解するための辞書的な構造
 ・主観的・個人的  ・客観的・社会(組織)的
 ・情緒的・情念的  ・理性的・論理的
 ・アナログ知・現場の知  ・デジタル的、つまり了解の知
 ・特定の人間・場所・対象に特定・限定される  ・情報システムによる補完などにより場所の移動・転移、再利用が可能
 ・身体経験を伴う共同作業により共有、発展増殖が可能  ・言語的媒介を通じて共有、編集が可能
暗黙知と形式知の特性
 そして、次のように述べている。
「身体的で本能的なレベルで知識(暗黙知)を持っていなければ、迅速にかつ高度なパフォーマンスを発揮することはできません。ただし、こうした知識を得たり 伝えるには時間がかかります。そこでは、マニュアルなど(形式知)が意味を持ってくるわけです。」(106頁)

 以上、暗黙知についての著作の一部を紹介してきた。
「迅速にかつ高度なパフォーマンスを発揮する」には、形式知と暗黙知の両方が必要だと いうことであるが、教育こそこの両方を重視する必要があると考える。ここで、教育にお ける暗黙知重視の意味についての東京都教育会の見解を参考までに提示してみる。
 物を理解する際、全体を細分化し、項目ごとに数値あるいは言葉で客観的に把握し、そ れを合計したものを全体像とするのが科学的だという考えが一般的のようである。
 しかし、この発想だけでは真実をとらえることができないのではないか、また、そのような理解だけでは、人間としての真の学びと言えないのではないか。

その理由を、われわれは次のように考える。
) 人は、数値・言葉以外の方法で対象を把握することもできる。例えば、感性・身体で あるいは直観的・総合的に把握することが可能である。
) 数値・言葉で把握した認識だけでは、現実に人間が行動しようとする時の力になかな か直結しない。学の生に対する意味が希薄になってしまうように考える。
) 対象の部分を集計しただけでは全体像は見えにくい。それを総合した姿が、現に生き ている自然・社会の姿である。
) 言葉・数値だけでは、伝え切れないものがある。例えば、ピカソは、いくつかの母子 像を描いている。その中で、温かい感情の共有を欠如した淋しい母子の姿をえがいている。そこで発するメッセージには、言葉以上のものがある。
) 企業経営でも、1920年代アメリカに発生した科学的管理論(テイラーリズム)だ けでは、今、成果をあげえないという考えが一般化している。暖かな人間関係や暗黙の知の共有が重視されている。教育でこそこの発想は重要である。
) 知識基盤社会では、各自の独自の理解・発想を尊重しつつ、開かれた場で協力的な雰 囲気の中で自由に意見交換をして共通理解をえることを重視している。そこでも、言葉だけでは集約しきれない部分、例えば感情のような暗黙知の共有が鍵を握る。
) 対象を真に理解しようと思えば、対象と直接に交流し、ポラニーが言う「潜入」をし なければならなくなる。体験的学習の重要性が強調される所以である。
) 人間関係の希薄化が憂慮されている現在、感性を豊かにし人とあるいは自然と暖かく 交流することの必要性が強調されている。今こそ、学校教育では暗黙の知の重要性を理解し、集団で展開される体験的・総合的な学習を充実することが期待される。

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 註1; マイケル・ポラニー 伊藤敬三訳・伊東俊太郎序 紀国屋書店
 註2; 岩波新書  16〜20頁
 註3; ちくま新書 105頁

以 上   

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