提言53: 山中伸弥博士のノーベル賞受賞を契機に、 日本人としての誇りをもつ児童生徒を育成しよう ! (2012/11/24 記) スウェーデンのカロリンスカ医科大学研究所は、10月8日、2012年のノーベル医学・生理学賞を、体のあらゆる細胞に変わる能力をもつ万能細胞「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」を世界で初めて開発した山中伸弥京都大教授(50)と、50年前に万能細胞の実現の可能性を初めて実験で示した英ケンブリッジ大のジョン・ガードン博士(79)に授与すると発表した。 日本人の受賞は19人目である。自然科学系の3賞(医学・生理学、物理学、化学)の受賞者数は国籍別に比較すると、21世紀になってからでは、アメリカに次ぐ第2位(アメリカ52人、日本11人、イギリス11人)である。日本の基礎科学の底力を世界に示すことになった。 東日本大震災と政治の混乱で沈みがちな日本社会に、何よりの朗報であり、日本に勇気と自信を与えてくれた。第2、第3の山中博士を生み出し、「科学立国」を創出するには、理科教育の充実を図るとともに、日本人としての誇りをもち、科学者や研究者を目指す児童生徒の育成が不可欠である。 児童生徒の理科離れが指摘されている中で、山中博士の受賞は、教育界への問題提起となった。山中博士のノーベル賞受賞に基づいて、改めて理科教育の充実について、見解を述べてみたい。 1.科学技術の力を身につけ,社会に役立つ児童生徒の育成に努めよう 文部科学省は、2012年の学力テストで、理科が新たに加わったことを受け、質問紙による調査を4つの項目を設けて行った。4つの項目の1つ「関心・意欲・態度」に関する調査結果から、学年が進むにつれて理科好きが減ることや、中学生になると授業内容の理解度が低下する傾向等が明らかになった。また、理科で学習したことは、「社会に出たとき役立つか」についての調査では、中学生の約半数が、将来役に立つと考えていない。国語や数学が将来役立つに比べて大きな差がある。さらに、「将来、理科や科学技術に関係する職業に就きたいと思うか」の問いに「思う」と回答した小学生は約29%、中学生は約24%である。この結果は、2003年国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)における「質問紙」の類似項目の傾向と共通している。 小学生から中学生に進むにしたがって、「関心・意欲・態度」が低下し理解度も大きく落ち込むこと、観察・実験の結果を分析して考察した結果、説明する力が不足していることも鮮明になったと言える。 一方、若手教師の8割が実験指導に自信がないと答えた調査結果がある等、教師の「理科離れ」も明らかになっている。 山中博士は2011年、[日経ビジネス]のインタビューの中で、「理系離れは深刻。日本では研究者の地位があまりにも低い。若い人たちに研究者が魅力的な仕事に見えていない。このままでは担い手がいなくなってしまう。米国は日本の逆、研究者の社会的地位が高い。給料そのものも高く、ベンチャー企業とのつながりも強い。米国では研究者が憧れの職業」と述べている。 日本が科学技術立国として世界をリードしていくには、児童生徒が、「理科の学習は社会に出たとき役立つ」「将来科学技術に関係する職業に就きたいと思う」と、ならなければならない。また、「科学技術やその研究」が、児童生徒の憧れの職業や将来の夢となるようにすることも必要である。 山中博士に続く研究者を育てるためには、理科教育の充実と教師の資質能力の向上を図るとともに、高等学校や大学、そして、社会における理系離れも改善していくことが必要である。 2.問題解決の学習を,より一層充実・徹底しよう 山中博士のノーベル賞受賞に至る「研究過程」は、問題解決の過程そのものである。 筆者は、2011年3月、本会ホームページで、「提言32:問題解決の授業をデザインしよう」と提言した。その内容は、「問題解決の学習は児童が中心である。児童の経験に基づいて、価値を追究し、知識を創造していく学習である。問題は児童が自ら把握し、児童が中心になって解決していく過程を、授業としてデザインすることが、教師の役割である。児童が学習の対象である自然事象の不思議さに気付き、問題を主体的に自覚し、把握できれば、それを解決せずにいられないという状態になる。教師の支援を借りながらも、主体的に解決への行動を起こすことになる。自然事象から捉えた問題を解決しようとして、時には直感的に考えたり、あるいは必要とする情報を集め、整理し論理を中心に、既習事項と関係付けたり、意味付けたりして、問題を解決していくようになる」と記述した。 このような授業をデザインするには、授業の中核となる「観察・実験」とそれに基づいた対話を重視することが重要である。また、個々のアイデアや「観察・実験」の結果に基づいた考察や解釈を自由に発信し、共有化するとともに、その中から新たな知識を創出する授業に練り上げていかなければならない。 大学では准教授や教授には、研究室が1室与えられ、個々で研究活動を行っているのが普通である。 ところが、山中博士は先日のノーベル賞を受賞した時の記者会見で、「京都大学iPS細胞研究所の研究室は広く、自分も含めて何人もの研究者が集まり研究活動を行っている」と述べていた。山中博士には、誰か1人がアイディアを発信すると、直ちに研究室内の研究者に共有化され、それに基づいて、新たな知識が創出できるという「読み」があって、何人もの研究者が広い研究室を活用しているものと考える。問題解決の学習も、教師の鋭い「読み」によって、デザインされ展開していくことが必要である。 3.教師の資質能力の向上を図る,校内研究を実施しよう 児童生徒の実態に基づいて、授業をデザインするのは教師である。児童生徒と教師が一体となって問題解決に当たらなければ、問題解決の学習は成立しない。児童生徒が、理科の学習は世界中の人々の生活に役立つ、そういう役立つ仕事の一翼を担いたいと自覚し、主体的に学習に取り組むことなしに、道は開けない。何としても教師の意欲と自覚に基づいて、問題解決の授業を創造していくことが必要である。 2012年8月、第64回日本連合教育会研究大会が、広島県呉市において開催された。研究大会2日目に記念講演が行われた。演題は「この国とこの星と子どもたち」。講師は、JAXA名誉教授、教育・広報アドバイザーの的川泰宣氏。 講演のメインテーマは、「命のトライアングル:『匠の心』『好奇心』『冒険の心』」。この3つの心に基づいて、命の大切さを説き、最高の教師は「子どもの心に火を付けることである。」と具体例を挙げながら話された。 的川氏が力説したように、「子どもの心に火を付け」、児童生徒の心を奮い立たせる教師を育てることが急務である。教師の資質能力を育てる研修には、色々なスタイルがあるが、その中でも授業を中核とした校内研修の充実を図ることが最も重要である。「問題解決の学習」の授業研究は、直接授業を参観し、それに基づいて研究を進め深化しなければ、何も見えてこないからである。 4.ノーベル賞受賞の学習 2012年のノーベル医学・生理学賞を、「iPS細胞」を作製した山中博士に決定たことに、日本中が喜びに沸いた。 これを契機に、iPS細胞はどのような細胞なのか、その概略と基本的なことを、ぜひ小・中学生にも学ばせたい。 (4-1)理科でiPS細胞を指導する iPS細胞に関する内容は、小・中学校の現行学習指導要領にはないが、発展として次に示す中で指導が可能である。 小学校理科では ▼第5学年:「B生命・地球」(2)「動物の誕生」 ア 魚には雌雄があり、生まれた卵は日がたつにつれて中の様子が変化してかえること イ 魚は、水中の小さな生物を食べ物にして生きていること ウ 人は、母体内で成長して生まれること 中学校理科では ▼第2学年:第2分野(3)「動物の生活と生物の変遷」 ア 生物と細胞 (ア)生物と細胞 生物の組織などの観察を行い、生物の体が細胞からできていること及び植物と動物の細胞のつくりの特徴を見いだすこと ▼第3学年:第2分野(5)「生命の連続性」 ア 生物の成長と植え方 (ア) 細胞分裂と生物の成長 生物の組織などの観察を行い、生物の体が細胞からできていること及び植物と動物の細胞のつくりの特徴を見いだすこと イ 遺伝の規則性と遺伝子 交配実験の結果などに基づいて、親の形質が子に伝わるときの特徴を見いだすこと。 小・中学校の現行の内容にある「受精卵」から、受精卵と同じ能力を持つES細胞(胚性幹細胞)を作製できること、体細胞に遺伝子を入れることによって、iPS細胞が作製できること等を、発展として単元の中に組み入れて指導するようにしたい。 (4-2)カリキュラムに「ノーベル賞受賞」の単元をデザインする 学校では、例えば「ノーベル賞受賞〜iPS細胞作製〜」のように、新たな単元をデザインし、カリキュラムに位置付けることを考えてほしい。その場合、「理科」だけではなく、「道徳」や「総合的な学習の時間」にも活用できるように工夫することが必要である。 5.ノーベル賞受賞の内容を,カリキュラムに位置付けるために 例えば、単元:「ノーベル賞受賞〜iPS細胞作製〜」を、デザインするとすれば、単元にiPS細胞作製の内容だけではなく、受賞に至るまでの研究の過程、その過程における失敗や苦労、研究者同士の関わり等も取り入れるようにしたい。 単元のデザインに当たっては、次のような内容を柱にすることが考えられる。 受賞の理由:50年前の研究ガードン博士の「初期化」であること。 山中博士の研究目的:難病で苦しむ多くの人たちに多大な希望を与え、一日も早く 治療に使えるように開発に努力していること。 研究の内容:ア 初期化 イ iPS細胞への出発点 ウ ES細胞(embryonic stem cell)「胚性幹細胞」の作製 エ クローンES細胞の作製 オ iPS細胞の作製を目指して カ iPS細胞の誕生 キ 本格化する医療応用 ク 倫理面の問題 失敗の連続:1回成功するために9回ぐらい失敗(山中博士談) 研究者同士の関わり 「iPS細胞:人工的に誘導された(induced)、多能性をもつ(Pluripotent)、幹細胞(Stem cell)」と名付けられた。 iPS細胞作製に関わる研究を、カリキュラムに位置付けるための資料として、その内容を以下に記述する。 (5-1)受賞理由は「体細胞」の初期化 受賞の理由は、「成熟細胞を多能性をもつ細胞に初期化できることの発見」である。 「多能性」とは、胎盤を除く全種類の細胞になれる(分化)能力のことである。1個の受精卵は274種類、60兆個の細胞になれる「全能細胞」である。 「初期化」とは、時間を巻き戻すかのように、細胞を未成熟な状態に戻すことである。山中博士は、2006年、マウスの「iPS細胞」を世界で初めて作製した。そして、2007年にはヒトの皮膚細胞からヒトiPS細胞を作製することにも成功した。 今回、山中博士と共に受賞者に選ばれたイギリスのジョン・ガードン博士も同じ「初期化」をテーマに研究を進め大きな成果を上げた。 (5-2)iPS細胞への出発点 iPS細胞は2006年に突然できたわけではない。源流は、ガードン博士によるクローンカエルの作製に始まる。 ガードン博士は、山中博士が生まれた年、今から50年前の1962年、カエルの卵から核を取り除き、そこにオタマジャクシの腸の細胞核を移植してオタマジャクシを発生させた。その後「クローンカエル」も誕生した。これが、iPS細胞の研究の基礎となった。 この結果から、眼や心臓に分化(細胞が専門化すること)した細胞であっても、核の中には遺伝情報が残っていることが分かってきた。そして、分化した細胞の核を、核を抜いた卵子に移植すると、初期化され、全種類の細胞になれることが明らかになったのである。 (5-3)ES細胞(embryonic stem cell)「胚性幹細胞」の作製 iPS細胞に先立って、1981年、イギリスのエバンス博士らがマウスのES細胞を、1998年には、アメリカのトムソン博士が、ヒトのES細胞を作製した。 ES細胞(胚性幹細胞)は、多能性をもち、ほぼ無限に増殖できる細胞である。しかし、ES細胞は胚(胎児になる前の細胞の塊:受精卵が6〜7回分裂した「胚盤胞」)から取り出した「内部細胞塊」をバラバラにし、特別な条件で培養することによって、初期化される。そのため、再生医療に広く応用するには、問題があり、現在に至っても解決されていない。 その大きな問題は、「生命倫理」と「拒絶反応」である。 その1「倫理問題」 ヒトのES細胞研究には、倫理問題がつきまとう。この細胞は、受精卵が分裂した胚の段階で未分化細胞を取り出して作製する。つまり、「生命の胞芽」である受精卵を壊すことでしか手に入らないからである。研究には、体外受精を行った夫婦から提供を受けた余剰胚で作製する。余剰胚の多くは廃棄される運命にあるとはいえ、子宮に戻せば赤ちゃんになるはずの胚を壊すことへの批判が根強い。 その2「拒絶反応」 ヒトの体には免疫系が備わっていて、異物を排除するようにできている。患者と提供者の余剰胚やDNAは異なるため、ES細胞はいわば「別人」の細胞である。そのため、ES細胞から作った細胞や臓器は「異物」とみなされ、移植しても拒絶されてしまうのである。 ヒトのES細胞は、「万能細胞」というニックネームで呼ばれるようになった。 (5-4)クローンES細胞の作製 1996年にクローンヒツジが誕生すると、難しいと考えられていた哺乳類の細胞の核も初期化できることが明らかになった。そして、拒絶反応のない「ヒトクローンES細胞」の作製が可能になった。しかし、クローン人間づくりにつながる等の問題もはらんでいる。 クローンES細胞は、患者自身の体細胞を使って作製するため、拒絶反応の問題を解決した。しかし、ES細胞が抱える問題点「倫理的な問題」を解決することはできない。 イラストの1〜6は患者の体細胞と、女性から提供された卵子を使って、クローンES 細胞を作製する手順を示したものである。2012年11月現在ヒトクローンES細胞作製の事例はない。 (5-5)iPS細胞の作製を目指して iPS細胞作製のすごさは、生命現象の根幹に迫る研究だからである。人体は約60兆個の細胞でできているが、その出発点は1個の受精卵である。受精卵は分裂を繰り返して皮膚や神経などに分化していき、いったん分化した細胞は元の分化前の状態には戻らない。 山中博士は、iPS細胞の作製に当たって、バラバラにした「内部細胞塊」がに変化(初期化)するとき、「内部細胞塊」に働いた「何か」(因子)を明らかするために、ES細胞に注目した。 そこで、ES細胞の中で活発に働く因子を突き止め、同じ因子を皮膚細胞の中に強引に送り込めば、皮膚細胞はES細胞のような状態になるのではないかと考えたのである。 皮膚細胞を初期化する因子 皮膚細胞を初期化するための因子を送り込む方法として、山中博士が選択したのは、因子そのものではなく、その設計図である遺伝子を送り込むという方法である。 遺伝子をウイルス(細胞の中に容易に進入する)を使って、運ばせることにした。つまり、ウイルスをベクター(運び屋)として使うことに決めたのである。 初期化に必要な「4個の遺伝子」 2003年4月、ヒトゲノム解読終了の時点で、ヒトの遺伝子数は2万2000程度と見積もられた。これらの遺伝子の中で、初期化に必要な遺伝子は何個か、そして、どの遺伝子なのか、特定することは、非常に困難なことであった。その手かがりを、山中博士は理化学研究所のデータベースの中に見付けた。 データベースを解析した結果、ES細胞で特に働く遺伝子を100個程度に絞り込むことができた。この100個から特に大事なのは24個の遺伝子へと、4年ほどかけて絞り込んでいった。さらに、24個の遺伝子を1個ずつ検証した結果、初期化に働く遺伝子は、わずか4個であることが明らかになった。 この4個の遺伝子を「ヤマナカファクター」と呼んでいる。4個の遺伝子の名前は、「K/f4」「Oct3/4」「Sox2」「c-Myc」(がん遺伝子)である。 (5-6)iPS細胞の誕生 2007年、ヒトの受精卵や卵子を必要としない人工的な万能細胞の作製に成功した。 山中博士はこの細胞をiPS細胞(人工多能性幹細胞)と名付けた。 ヒトiPS細胞から、「筋肉組織」「腸管様組織」「神経組織」「軟骨組織」など様々な組織が作製されている。 マウスでは、iPS細胞から正常な精子や卵子を作製することは、既に成功している。また、作製した精子や卵子を通常の卵子や精子と受精させ、正常なマウスを誕生させることにも成功している。 2012年11月現在、日本では、ヒトiPS細胞から生殖細胞を作製する研究は認められているが、作製した生殖細胞を受精させることは、禁じられている。生殖医療への応用は、倫理問題がはらんでいるからである。 (5-7)本格化する医療応用 iPS細胞を利用した再生医療の究極のゴールは臓器を丸ごと再生することである。 iPS細胞から分化させた細胞を移植すると、がんなどの腫瘍ができてしまう可能性がある。そのため、動物では成功しても安全性が正確に評価されるまでヒトには応用できない。2012年11月19日、毎日新聞は「理化学研究所(理研)の倫理審査委員会は19日、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った目の病気治療の臨床研究について、計画は適正として承認した。21日には共同研究機関の先端医療センター病院(神戸市)の倫理委でも審議が予定され、承認されれば年内にも厚生労働省の委員会に計画が申請される。国が承認すれば、iPS細胞を使った世界初の臨床応用が実現する見通し」と報じた。 臨床研究は、理研発生・再生科学総合研究センターの高橋政代プロジェクトリーダーらが、「早ければ2013年にはiPS細胞から作製した網膜の細胞を移植する臨床試験が実現するかも知れない」と計画されていた。 高齢者に多い目の病気「加齢黄斑変性」のうち、網膜の裏側に余分な血管が生えて視力が落ちる「滲出型(しんしゅつがた)」の患者6人前後を対象としている。患者の皮膚細胞から作製したiPS細胞を、網膜の一部「網膜色素上皮細胞」に変化させ、シート状にして移植するというものである。 [引用画像:Newton 2012.12月号] 以 上 Back to Contents